MENU : ●彗星の謎解きに関わった人々 ●彗星の構造 ●彗星はどこから来るのか ●彗星の符号 ●彗星の軌道要素 ●彗星はあなたにも見つけられる?!

●彗星の謎解きに関わった人々●

はじめて彗星の出現を予言した人 エドモンド・ハレー

 みなさんは「彗星」という言葉をきくと、最初に思い浮かべるのはなんでしょう。やはり、彗星の代表格といえば「ハレー彗星」でしょう。この「ハレー」とは、人の名前なのです。
 17〜18世紀のイギリスの天文学者、エドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656-1742)は、オックスフォード大学で物理学を研究していました。同じ頃、イギリスのケンブリッジ大学で物理学を研究していたニュートンは、「万有引力の法則」を発見します。ハレーは、26歳の1682年のとき出現した大彗星に興味をもち、その観測データとこの法則を元に彗星の軌道を計算し、この彗星が約76年の周期をもつ楕円軌道をもち、過去に出現した1531年・1607年の彗星も同じ彗星であるだろうと考えました。そして、次にこの彗星が来るのは、1682年の76年後。つまり1758年に再び彗星が現れることを予言したのです。
 ハレーは1742年に亡くなりますが、予言通り1758年に再び大彗星が現れました。このハレーの功績をたたえ、この彗星には「ハレー彗星」という名前が付けられました。
 その後、過去のいろいろな記録によると、ハレー彗星の記録は紀元前239年までさかのぼることができることがわかっています。世紀を超えてハレー彗星は宇宙を旅しているのですね。

彗星の番人 シャルル・メシエ

 18〜19世紀には、たくさんの彗星が発見されるようになりました。そんな中、フランスに熱心な彗星観測をする青年がいました。シャルル・メシエ(Charles Messier 1730-1817)は、パリにあるフランス海軍天文台に21歳から助手として働くようになりました。メシエ28歳の冬、彼は過去の観測から予報されていたハレー彗星を探していました。1759年1月21日、ついにメシエはハレー彗星を発見しました。残念ながらこの発見は世界で一番最初ではありませんでしたが、その名前は世界中の天文学者に知れ渡ることになります。
 それ以後もメシエはたくさんの彗星を発見し続けます。しかし、望遠鏡でひたすら星空を観測しつづける彗星探索はとてもたいへんなことです。望遠鏡をのぞいていると、ときどき彗星のようにぼんやりとした光のしみを見つけることがあります。しかし、大抵は彗星ではなく、星雲や星団であることがほとんどでした。このように彗星と見間違いやすい天体をあらかじめカタログとしてまとめておくことにより、彗星探索をしやすくしようと、メシエが作ったのが「メシエカタログ」と呼ばれるものです。メシエカタログには全部で110個の天体が含まれており、番号の前に「M」がついた天体名を耳にしたこともあるでしょう。メシエが観測していた時代の望遠鏡で見える星雲や星団を集めたものですから、今の望遠鏡でも容易に見つけることができるため、初心者にも見やすい天体としてその名前が知られています。

明治時代のアマチュア天文家 前原 寅吉
 メシエが観測したハレー彗星の回帰から2回目の回帰となる1910年(明治43年)。このとき、世界中はハレー彗星の話題でいっぱいでした。それは、計算された軌道から、ハレー彗星の尾が地球にかかることがわかったからです。いまでこそ彗星について研究が進み、その成分もわかりつつありますが、その時代ではまだ彗星は謎の天体でしたから、そんな話しが伝わると、巷にはいろいろな噂が広がりました。
 たとえば「彗星がぶつかってきて地球がくだけ散ってしまう」とか、「地球の空気が彗星の尾に吹き飛ばされて、空気がなくなってしまう」とか「彗星の尾の成分に含まれる毒ガスで、人間が死んでしまう」とか・・・。世界中でガスマスクや予防薬が売られたり、地下室や酸素ボンベを用意する家もあったり、中には自殺してしまう人もいたそうです。
 そんな噂が日本にも広がり、当時の新聞には、ハレー彗星の記事がたくさん賑わせるようになっていました。しかし、世間の噂に流されず、自分で観測し研究し、ハレー彗星の日面通過を観測した人物がいました。青森県の八戸で眼鏡屋さんを営んでいた前原寅吉です。寅吉は、八戸の子供たちに自分の望遠鏡を使って星を見せては、いろいろな宇宙の不思議を子供たちに説いていました。そんな寅吉の元にも、ハレー彗星の噂を聞きつけた子供たちが毎日のようにやってきます。寅吉は彗星のことを熱心に話しながら、自分達が死んでしまうようなことは無いことを子供たちに教えていました。
 1910年5月19日。寅吉は、家の物干台に倍率の違う3台の望遠鏡を用意しました。レンズの前には寅吉が考えた「太陽観測用眼鏡」を置き、4日前から太陽黒点の位置を観測し、太陽面の様子をしっかりとおぼえていた寅吉は、じっと望遠鏡の中の太陽を見つめます。午前11時20分。太陽の一部の色がだんだんと青い色に変化しはじめました。その色は少しずつ移動していき、お昼を過ぎた午後12時17分には、元どおりの太陽に戻っていきました。
 この様子を捕らえることができたのは、世界中を探しても寅吉だけでした。数ある天文台がこぞってこの様子を観測していたのに、寅吉だけが観測できたのはなぜでしょう。寅吉が考えた「太陽観測用眼鏡」が成功したのか、その理由は定かではありません。でも、アマチュアだからできることが、天体観測にはあることを私たちにも教えてくれていると思います。

前原寅吉については、以下の本が出版されています。興味を持った方は是非お読みになってはいかがでしょう。

   「野の天文学者 前原寅吉」
  鈴木喜代春 作 三浦福寿 絵 あすなろ書房刊 
   \1,262(税別)  ISBN 4-7515-1230-7

前のページへ

次のページへ